実はいつかは、こんなテーマで一つコラムを書いてみたいなと思っていたのは正直なところで、しかし、書き始めると頭の中で内容が重たくなりすぎてなかなか進まない。今回は、あまり自信がないけれども、うえやまさんの後押しもあってちょっと書いてみようかな、という程度で書いてみた。

ワタクシが魂の出会いを肌で感じるくらいビシビシと感じるときは、やはり旅という時間、旅という空間にいるときが多かったと思う。旅という不確定で非日常的な世界にいると、自分の中の意識がそのまま目の前に広がってくるような気がした。出会う旅人は実は自分自身の内面の一部が拡大した存在なのではないか?飛行機に乗ってここまで着たけれども、景色が変わっているだけで、実は自分の居場所はちっとも変わってないんじゃないのか?フトそんな錯覚さえ覚えたことがある。ユースホステルや安宿で出会う人間は、今まさに自分が考えていることを体現している人だったり、あるいはそのヒントになるような情報を持っていたりした。必要なものはあらかじめすべて用意されてあり、それを求める心と受け入れる自分の準備さえ整っていれば、与えられると確信ができるようになった。そして必要でないものは人にあげたり、何かのトラブルによって別の世界へと奪われていった。生きていくために必要な物を捉えるアンテナは急激に発達し、そして自分に起こる事象の前触れ(サイン)は、すぐにそれだと判断できるようにまでなる。そんな非日常的な毎日を繰り返していると、その出会いや事件が奇跡的なタイミングで起こっているような気がしてくる。それは幻想だよと言われればそれまでだが、これは何者かが自分をある方向へと導いているのでは・・・と、自然に内側から湧いてくる感覚は否定できない。

振り返ってみて、あの時あの人と出会ってなければ今どうなっていただろうな、と、つくづく思う。なぜなら、旅先でうえやまさんと出会っていなければ、ワタクシがコラムを書くこともなかったであろうし、もちろんこんなシガナイ土木作業員にインタビューなどしてくれる人もいなかったと思う。ということは、ランディさんみたいな有名な方と出会うこともなかったはずだ。その時は気づいていない人が多いと思うけれども、すべての人はこうして奇跡的な出会いを繰り返しているのだと思う。私たちが存在していること自体奇跡なのだから、もしかするとそれは当たり前のことなのかもしれない。

最初に田口家のみなさんにお会いする前に、せめて出版本に目を通しておかなければとランディさんの本を買いあさり、読んでみて驚いてしまった。「木霊」「聖地巡礼」「根を持つこと、翼を持つこと」ここまで読んで、なるほどなぁと、その流れが見えてきたような気がした。うれしい。ときどき、神社や自分の場所でぼ〜っとしていたワタクシにとって、同じ感覚を持っている人は、また自分を知る上でも興味の尽きない人である。この方のトーテム(属性)は魂のことを語る役割なのかな、と、なんともなしに思ってしまった。

ランディさんちの食卓は、まず入って「あぁ、いいなぁ」と感じたのが照明の加減。それから木のテーブルの周りにわりと大きい観葉植物が茂っている。とても居心地のいい空間だ。講演や取材で忙しいなかランディさんとお話ができたのは非常に幸運だ。そこへ、ご主人さんが手料理を振舞ってくれた。かなりおいしい。ちなみに、カキ雑炊と鮭のつみれ鍋はピカイチでした。レシピ帳を出版されたら、かなり売れるのでは。ランディさんはエッセイから読み取れるようにホントにサバサバした人で、娘さんがまとわりついて甘えている中、話はいろんな方向へ弾んでいく。アニミズムのこと、屋久島のことや森のイスキアのこと。簡単に言うと「え〜!マジですか。ぼくもなんですよぉ」の連発でひとり歓喜していた。そしてアイヌのレラさんの話になった。
「アイヌのレラさんって知ってる?」
「いんえ。」
「私がこういうこと言うのもナンなんだけど、メディスンマンっているでしょ。でね、いろんな国のメディスンマン達から尊敬されるくらい強いチカラを持った人なのよ。だからまぁ、アイヌの聖地に住んでるメディスンマンね、アシリ・レラさんていう。周りの人達からわね、サンダーウーマンって呼ばれてるみたい。すごいのよホントに。私も目のまえで見ちゃったからなぁ。この前いっしょに富士山登ったんだけど・・・」
そこからの話は、あまり耳に入ってこなかった。ワタクシは宙を見るような状態で、うなずきながらランディさんの話を聞いていた気がする。どこかで衝撃を受けている。それはちょうど10年ほど前に、この本読んでみたら?と薦められた「ローリングサンダー」のときと同じような感覚だ。

「アナタハ、二風谷ニイカナケレバナラナイ」
ランディさんの魂からは、そう信号を送っているような気がした。

めぐり逢う魂たちの中で、
ワタクシのビジョンが再び動き始めたようだ。

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