「ローリングサンダーを訪ねて」を読み終えて

1年前ぐらいだっただろうか、
大阪の阪急百貨店で沖縄物産展をしていたことがあった。
たまたま阪急に行っていたので
物産展をのぞいてみると、そろそろ沖縄民謡のライブが
始まるとのことで、見ていくことにした。

演奏がはじまり、だんだんと会場の空気が盛り上がってくる。
すみのほうでは、スタッフのおばちゃんだろうか
リズムにあわせて小さく踊っている。
盛り上げるために、踊ってるんだろうと思っていたんだけど
見ているとずいぶん気持ちよさそうに踊っている。
演奏を聴きながらも、そのあばちゃんが気になって仕方がない。
ついつい体が動いてしまうのか、意識的に動かしているのか。

踊りたがる人は、踊りに自信がある人、
ぼくのなかではそういう図式があった。
だって、なかなか人前で踊れないよ、
はい踊って!っていわれても。
下手だから踊れない。
だから、踊る人は踊りに自信があるんだと、
ずっとそう思っていた。
しかし、さっきから踊っているおばちゃんは
ずいぶん気持ちよさそうに体をユラユラさせている。

そのとき思った。あ〜違うんだって。
明らかに流れているものが違う。
格好いいとか悪いとかそんなことで
あのおばちゃんは踊っているんじゃない。
踊っているんじゃなくて、揺れているんだ。
型どおり動いているんじゃなくて、
体が音楽にゆらされているように思えた。

ぼくの体は残念ながら、そうはならない。
好きな音楽を聴き感動しても、
せいぜい涙を流すことくらいのものなのだ。
それが血のか、育った環境なのか、わからないけど、
ずいぶん損をしているような気がした。
何か大切なものをぼくは身につけてこなかったような気がした。
音楽は聴くものになっていた。
どんなに大音量で聴き、体中がじんじんしてても
静かに座って聴くものだった。

発信されたものを受けて、それを自分なりの表現で返す。
それをコミュニケーションというなら
ぼくの音楽はコミュニケーションではない。
明らかに一方通行の鑑賞なのだ。
気持ちいいと感じても、気持ちいいことを表すこともない。
だけど、おばちゃんの踊りはコミュニケーションしていた。
それは、コンサートで腕を振り上げたり、手拍子するのとは
全然違うことのように感じる。

「ローリングサンダーを訪ねて」という今回の手記にも
ローリングサンダーと粕谷さんが、言葉だけでなく
音楽を通じてお互いの心の接点を模索する様子が描かれていた。
演奏する側と聞く側という図式ではない。
音楽を通じてお互いが自分自身をさらけ出していく。
そのなかにお互いが共有できる部分を見つけたときに
心から通じ合ったという確かなものを感じるのだろう。

言葉に言霊という言葉があるように、
音には確かに音霊がある。
そしてそのどちらにも響きがある。
響きは真実しか伝えない。
偽りの響きはそれが偽りであるという真実を持って伝わる。
だからこそ、ローリングサンダーは
音楽を大切にしていたのではないだろうか。

音楽の優先順位どんどん低くなりつつあったなかで
今回、音楽の大切さを再認識する機会になった。
生きた音楽、いい音楽を聴きたい、
そして、自らももう少しいい音を奏でられるようになりたい。
魂を運ぶ道具だから。音楽は。



今回、粕谷さんにはできるだけ多くの人の元に届くようにと
聞き耳に貴重な手記をご提供いたただきました。
読み終えた感想や質問など、ございましたら、
聞き耳までお送りください。
粕谷さんに転送させていただきます。